八 结语 重新发现兆民译《民约译解》
辛亥革命前,兆民的《民约译解》被中国的革命派重新发现,并刊登在《民报》第26号,[179]题目作“民约论译解”,注明“中江笃介译并解”。文末识语称,“按中江笃介、有东方卢梭之称。没后、所著兆民文集、于今年〔1909年〕十月八日始发行。取而读之、甚服其精义。中有民约论译解凡九章、特录之以飨读者”。
《兆民文集》[180]为幸德秋水所编,1909年10月刊行。计564页,全文收入《民约译解卷之一》。由孙中山派的汪兆铭复刊的《民报》第25、26号,曾被反孙中山派的章炳麟等指作“伪民报”,复刊本身曾深引发热议;但其所刊《民约译解》似并未受到关注。《民约译解》尽管在戊戌维新时曾被翻刻为《民约通义》,辛亥革命前夜又以《民约论译解》之名刊载于革命党机关刊物,但也都未留下明显影响。
总之,辛亥革命后,中华民国成立,孙中山就任第一任临时大总统。而中华民国的根本大法《中华民国临时约法》宣称“中华民国之主权,属于国民全体”,亚洲的东方诞生了卢梭社会契约论所阐述的人民主权的共和国。但是,众所周知,一年多后,因二次革命失败,革命元勋们被赶下台,许多人再次流亡日本。[181]
面对始料未及的历史判决,试图通过透读兆民《民约译解》进行反思和解释的,是革命派早期成员之一田桐。田桐认为,革命失败的原因,在于他们革命党未理解共和真义,因而决心重新学习《民约译解》以重新构建革命阵营。带着这种意识,田桐重新刊行了《民约译解》,并题名“共和原理民约论”[182]。
田桐在重刊《叙》[183]中述其思路如下:“不知自治,即不足以言共和。自治之精神不强,共和之政治乌能发达?自治精神者里也,共和政治者表也。自治精神者实也,共和政治者名也”;共和国因不巩固内在实质和根本、仅虚饰表面和枝叶而崩溃者不计其数,自治与共和是不即不离的关系。如此总结后,田桐论及卢梭说:
法儒卢梭先生……鼓倡共和政治、而其次序以人民相约自治为始基、此诚天经地义之道、不可摩灭者也。
然而,田桐又说,年轻时曾在武昌购上海某书店刊“汉译民约论”,读之并未理解其中道理。田桐所购者或即杨译《民约论》(购书年次稍有不符,概记忆错误)。而直至精读兆民译本,才理解其原理。
去秋亡命再走日本,复购中江兆民先生文集,取其中汉译民约论,反复数十遍,始恍然觉悟。呜呼,共和之道,其在斯乎,其在斯乎。
至此,通过兆民《民约译解》的重刊,中国读者终得直接面对“社会契约论”。田桐在卷首配古诗一首,以咏终于觉醒的心境。
民约皇皇,光被四方,哲人云遙,我心悲伤。
民约渊渊,流润如泉,君子之心,凡民之田。
民约浩浩,载焉思道,抉我樊笼,生民再造。
民约休休,同徳同仇,载陟北邙,鬼声啾啾。
言念南海,丧我髦士,民约不成,命也天只。
朔风萧萧,哀鸿嗷嗷,之子于归,我心揺摇。
我阻海东,滔滔不归,日照扶桑,黄鸟依依。
相彼豺虎,其欲逐逐,哀我同根,以生以育。
忠言如荼,莠言如醴,凡今之人,莫如兄弟。[184]
《共和原理民约论》由中华革命党的公开组织即东京的民国社刊行。概因田桐关系,同样内容版本也由上海的泰东图书局在中国出版,不过书名仅作《民约论》。[185]如前所述,梁启超曾指出自治精神对共和政治的重要性,但为革命派所忽视。而历史往往如此。另外,兆民不赞成将“republic”译作“共和”,[186]中国的革命派恐怕也了解此点,但他们或许并不介意。
田桐等人的努力,后来为李大钊所继承。此点由村田雄二郎指出,[187]宫村治雄也曾作进一步论述。[188],后来的事态发展极其曲折复杂。该问题留待另述,此处仅举兆民之后日本民权运动的一些情况,以作对比,并结束本文。
《民约译解》刊行后,《大日本帝国宪法》于1889年(明治22年)正式发布,翌年召开国会。兆民成功竞选众议院议员,但因不满议员们不守政治节操,三个月后即挂冠而去。其后的兆民活跃于言论界,但并未发挥多大影响。自由民权运动失去目标,逐渐陷入颓势;兆民于1901年12月13日去世后,其名字亦被忘却。
1912年(明治45年)6月28日,由堺利彦发起,卢梭诞辰两百周年纪念会在东京神田的多贺罗亭举行。参会者40多名,包括伊藤痴游、内田鲁庵、三宅雪岭、福田英子、西川光二郎、山口孤剑、荒畑寒村、白柳秀湖、大衫荣、高畠素之、吉川守邦等人。伊藤发言说,自由民权高涨时期,每人都随身带着一本《民约论》,今日集会,当年的自由民权论者竟无一人出席,实不相称。一年后,堺利彦又回忆道,“去年(1912)六月,我召集卢梭纪念会时,不由想起《民约译解》作者、被称为‘东洋卢梭’的中江笃介,和中江的继承人幸德秋水。当日之辩士亦多谈到中江笃介。卢梭纪念会,简直又是中江纪念会”。[189]
三十年之前的追捧和之后的寂寥,清晰反映出“人民主权”所处的时代状况。就在日本的民权斗士们为民权运动消退而慨叹时,中国却在尝试复兴“人民主权说”。
[1] 日本京都大学名誉教授。
[2] HAZAMA Naoki,“Introduction,” ACTA ASIATICA,No. 102(The Modern West and the Establishment of an “East Asian Sphere of Civilization”),2012.2.另请参阅从语汇交流史角度最早对该领域做深入研究的沈国威著『近代日中語彙交流史─新漢語の生成と受容』(笠間書院、1994年);对日制汉字新词做深入分析的有陈力卫著『和製漢語の形成とその展開』(汲古書院、2001年)等。李汉燮编『近代漢語研究文献目録』(東京堂出版、2010年)收录详备,是价值极高的文献目录。
[3] 参照中山大学学报(社会科学版)2012年第2期收录的狭间论文。
[4] 中野三敏『十八世紀の江戸文芸─雅と俗の成熟』岩波書店、1999年、77頁。
[5] 武田楠雄『維新と科学』岩波新書、1972年、81頁。
[6] 井田進也「“東洋のルソー”中江兆民の誕生」『中江兆民のフランス』岩波書店、1987年、209頁。
[7] 井上厚史「中江兆民と儒教思想―「自由権」の解釈をめぐって―」島根県立大学北東アジア地域研究センター編『北東アジア研究』第14·15合併号、2008。
[8] 松永昌三认为,高知的报纸于1882年秋即称兆民为“今芦骚”(「今蘆騒」),后《民约译解》(「民約訳解」)于1882~1883年连载于《政理丛谈》(『政理叢談』),“东洋卢梭”(「東洋のルソー」)之尊称遂广为人知(『中江兆民評伝』岩波書店、1993年、102頁)。另有观点认为该称谓可上溯至日译《民约论》完成的1874年,似过早。
[9] 重新发现“中国的卢梭”的是梁启超。请参阅忧患余生生(韩文举):《扪虱谈虎录》(《新民丛报》第14号,1902年8月)所收《黄梨洲》。
[10] 「年譜」『中江兆民全集』別巻、岩波書店、1986年、533頁。下文叙兆民通常经历皆依该《年谱》,注释略。全集总18卷,1983年11月至1986年4月刊。
[11] 飛鳥井雅道『中江兆民』吉川弘文館、1999年、88頁。
[12] 「兆民居士の文学談」『天地人』第18号、明治31年(1898)11月2日(『中江兆民全集』第17巻、205~206頁)。应注意此为30多年后的回忆,《小学》之训读,用林家正本、芝山后藤先生定本『改正小学句読』(文刻堂、1884)。
[13] 据说,藩校规定,无藩役者每月须到校20日。飛鳥井雅道『中江兆民』14頁。
[14] 飛鳥井雅道『中江兆民』31~34頁。
[15] 飛鳥井雅道『中江兆民』44頁。
[16] 幸徳秋水「兆民先生」『中江兆民全集』別巻、450頁。
[17] 井田進也『中江兆民のフランス』66頁。
[18] 井田進也『中江兆民のフランス』8頁。关于井田如何执着地进行缜密详细的调查研究,请参阅该书第一、二章。
[19] 飛鳥井雅道『中江兆民』69~76,83~84頁。
[20] 桑原武夫「人間兆民」桑原武夫編『中江兆民の研究』岩波書店、1966年、25頁。
[21] 笔者所见京都大学人文科学研究所藏本,为1890年刊行之合订本。
[22] 幸徳秋水「兆民先生」『中江兆民全集』別巻、451頁。
[23] 大久保泰甫·小山昇·松沢弘陽「法律翻訳書解題」『中江兆民全集』第17巻、480頁。
[24] 仏蘭西著、日本 中江篤助訳「民約論巻之二」(『中江兆民全集』第1巻)。「戎雅屈拉蘇」即“让·雅克·卢梭”。
[25] 山田博雄『中江兆民 翻訳の思想』27頁。关于“社会契约论”二分说,山田举了吉冈知哉『ジャン= ジャック·ルソー論』(東京大学出版会、1988年)为证。
[26] 西周「百学連環」『西周全集』第4巻、宗高書房、1981年、179頁。关于“百学连环”之名称等,请参照“西周《百学连环》数据库”(「西周『百学連環』データベース」),nihuINT:http://int.nihu.jp/,京都大学人文科学研究所附属现代中国研究中心网站http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/index.htm。
[27] 箕作麟祥纂輯『万国新史』東京 玉山堂、明治四年十二月(1872年1~2月)刊、5葉裏~6葉表。
[28] 三宅雪嶺『同時代史』第2巻、岩波書店、1950年、88頁。
[29] 下出準吉「自由民権文献年表」『明治文化全集』第5巻、自由民権篇、日本評論社、1927年、512頁。
[30] 狹間直樹「西周のオランダ留学と西洋近代学術の移植」586頁。
[31] 河野磐州伝編纂会編刊『河野磐州伝』上、1923年、126~127頁。
[32] 『明治民権家合鏡』明治13年(『明治文化全集』第14巻、続自由民権篇、日本評論新社、1956年。见封底内页。
[33] 児島彰二『民権問答』上下、発売書林中邨熊次郎、明治10(1877)年。值得关注的是,该书论之所及,甚至包括男女同权(下卷,第12页a)。
[34] 稲田正次『明治憲法成立史』上巻、有斐閣、1960年、634頁。
[35] 宮崎滔天著、島田虔次·近藤秀樹校注『三十三年の夢』岩波文庫、1993年、36~37頁。
[36] 『評論新聞』第99号、1876年6月。上村希美雄『宮崎兄弟伝』日本篇上巻、葦書房、1984年、103頁。
[37] 上村希美雄『宮崎兄弟伝』日本篇上、178頁。
[38] 三宅雪嶺『同時代史』第1巻、岩波書店、1949年、458~459頁。
[39] 「自治政」上村希美雄『宮崎兄弟伝』日本篇上、178頁。“传说”请见该书第197页。该书为有关宫崎八郎的优秀传记,但把兆民的《民约译解》误作日译《民约论》的汉译,实属上村罕见玉瑕。
[40] 佐藤孝「地方民権青年の教育履歴─佐久間権蔵の東京遊学とその蔵書」『開港のひろば』(横浜開港資料館館報)第77号、2002年7月。
[41] 上村希美雄『宮崎兄弟伝』日本篇上、21図。
[42] 戎雅屈蘆騒著、服部徳訳、田中弘義校閲『民約論』有村壮一蔵板、明治10(1877)年12月。「戎雅屈蘆騒」即“让·雅克·卢梭”。
[43] 井田進也·松永昌三「解題」『中江兆民全集』第1巻、292頁。
[44] 法朗西戎雅婁騒著、日本中江篤介訳并解『民約訳解巻之一』仏学塾出版局、明治15(1882)年10月。「戎雅婁騒」即“让·雅克·卢梭”。
[45] 仏国戎雅屈婁騒原著、日本原田潜訳述覆義『民約論覆義』春陽堂、明治16(1883)年2月。
[46] 山田博雄『中江兆民 翻訳の思想』慶應義塾大学出版会、2009年、46頁。其中战后出版6种,书名作《社会契约论》(「社会契約論」)。中村雄二郎指出:明治译本“基于儒教素养,反映志士仁人和自由民权运动的思想倾向”,大正时代市村光惠、森口繁治译《民约论》等,反映了忠实于已成五大国之一的“大日本帝国”的“帝国大学教授的学究态度”,而战后桑原武夫、前川贞次郎译《社会契约论》等,则反映了第二次世界大战战败后的“民主主义时代的色彩”(『近代日本における制度と思想』未来社、1967年、139頁)。
[47] 小島祐馬「中江兆民の学問と文章」『人文学報』第13号、1960年、10頁。
[48] 森岡健二編著『近代語の成立─明治期語彙編』明治書院、1969年、186頁。
[49] 前田愛『近代読者の成立』有精堂、1966年、128頁。
[50] 「題辞·揮毫」〔五一〕『中江兆民全集』第16巻、283頁。文出『文選』巻52、「典論 論文」。
[51] “恪尽操守的理想家”(「操守ある理想家」)见于黑岩泪香对《一年有半》的书评(幸徳秋水宛書簡『中江兆民全集』第16巻、208頁)。
[52] 幸徳秋水「兆民先生」『中江兆民全集』別巻、421~422頁。以汉文翻译英语著作的下里弥生(岡松甕谷閲『泰西偉人伝』、1887)也曾说,汉文简洁而能尽其详(三浦叶『明治漢文学史』汲古書院、1998年、207頁)。
[53] 皆收于『中江兆民全集』第11巻、1984年。
[54] 「余の信ずる一品」『天地人』第6号、1898年6月2日(『中江兆民全集』第13巻、183~184頁)。《一年有半》中亦可见对冈松、荻生的类似评价(1901年9月2日;『中江兆民全集』第10巻、199~200頁)。
[55] 小島祐馬「中江兆民の学問と文章」9頁。
[56] 島田虔次「中国での兆民受容」『中江兆民全集』月報2(第1巻)岩波書店、1983年、5頁。
[57] 「中江兆民の漢学(一)」『中江兆民全集』月報11(第3巻)1984年。
[58] 「民約訳解」『中江兆民全集』第1巻、78頁。法国盧梭先生原著、日本中江篤介先生漢訳、後学田桐校字『共和原理 民約論』民国社、1914年、7頁。
[59] 「叙」『中江兆民全集』第1巻、132~133頁。
[60] 斉藤毅『明治のことば─東から西への架け橋』講談社、1977年、220頁。
[61] 『哲学字彙』東京大学三学部印行、明治14(1881)年。基于名著普及会1980年的影印本。
[62] 服部誠一(撫松)『東京新繁昌記』第一編、明治19年、24葉表。
[63] 大槻文彦『言海』六合館、1931年。该辞典所载基本上是1889年初版时的词汇。其解说称,“日常所用汉字语词遗漏过半”(第1338页),故仅作参考。1889~1891刊《言海》第一版(飛田良文、松井栄一、境田稔信編 『明治期国語辞書大系』大空社、2003)亦同。
[64] 『改訂増補哲学字彙』東洋館書店、明治17(1884)年;『英独仏和哲学字彙』丸善、明治45(1912)年(同为1881年版之影印本。后者影印底本为1921年第2次印刷,视作1912年刊)。初版、再版皆无“sovereignty”条,仅有“sovereign”,译为“主君、元首”。
[65] 有名事例之一是,在“哲学”已相当普及后,兆民仍在使用“理学”。宫村治雄:「中江兆民における「ルソー」と「理学」」曾就此做过深入分析,认为兆民之使用“理学”,乃欲发挥原有思想传统,以应对西学东渐后的新的知识环境(『理学者 兆民』みすず書房、1989年)。
[66] 『中江兆民全集』第1巻、93頁。
[67] 『中江兆民全集』第1巻、125頁。
[68] 『中江兆民全集』第1巻、98,116頁。
[69] 「翻訳作品加筆箇所総覧」『中江兆民全集』別冊。
[70] 中村雄二郎『近代日本における制度と思想』160頁。
[71] 「原政」『奎運鳴盛録』第5号(『中江兆民全集』第11巻、15頁)。
[72] 「一年有半」『中江兆民全集』第10巻、177頁。须注意的是,孟轲所代表的儒教的革命理念,如小岛的保留意见所示,其虽强调政治乃为人民,但那“虽无疑是民本主义,但却并非近代民主主义的民权主义,其立场仍是君主主义,这是不可否认的”(『中国の革命思想』弘文堂、1961年、31~36頁)。此论或许针对大正民主主义潮流中深受论坛追捧的“民本主义”而发,但兆民早在明治时期就明言“汉土有之”。宫村治雄指出,兆民在伦理学说中发现东西方共通之处的西欧体验,或许曾受到西欧类似发现的触发。(『理学者兆民』114頁)。
[73] 『孟子』、岩波文庫、下397、141頁。附言之,信州臼田的井出家族藏有一块匾额,大小约如铺席,上书“民为重 兆民生”,似书于明治25年2月4日(井出孫六「民為重」『中江兆民全集』月報4、第8巻)。概兆民以“重”字恰与“君为轻”之“轻”字相对而改书。照片载桑原武夫编『中江兆民の研究』卷首。
[74] 小島祐馬『中国思想史』創文社、1968年、210頁。
[75] 島田虔次「堯舜民主政?」『隠者の尊重:中国の歴史哲学』筑摩書房、1997年、所収)。岛田称约束君权的儒教为“孟子儒教”[与入矢义高、沟口雄三的座谈会,『中江兆民全集』月報13(第6巻)]。
[76] 『中江兆民全集』第1巻、16頁。日译原文如下:全国民相集テ全国民ニ係ル事件ヲ議スルトキハ、人々己レヲ視ル而已ニシテ他ニ関セズシテ、乃チ臣庶トシテ立言スル所ノモノヲ君主トシテ決スルナレバ、彼此ノ間二人有ラズシテ全部ヲ欠クコト無フシテ、其ノ意ハ真ニ衆人ニ出デテ其事ハ真ニ衆人ニ還ル故ニ、余ハ茲意ヨリ生ズル所ノモノヲ名ケテ之ヲ国法ト曰フ。
[77] 『中江兆民全集』第1巻、92頁。
[78] 巻之二「第六章 律例」之第三「解」(参照『中江兆民全集』第1巻、197頁)。
[79] 岡和田常忠「兆民·ルソー─『民約一名原政』訳解」日本政治学会編『日本における西欧政治思想』1975年、58頁。受此启发,井田进也也曾就“理”“义”“利”等做过探讨(「中江兆民の翻訳·訳語について」『中江兆民のフランス』第Ⅴ章)。
[80] 服部徳訳『民約論』第一編「第七章 君主」一ノ32頁。日译原文如下(狭间断句):前ニ挙タル名称ニ由テ観ルトキハ、民約ハ社会ト社員トノ間タノ誓約ヲ包容セリ。而シテ社員ハ各々其義務ヲ尽クスニ於テ二種ノ性ヲ具有スルナリ。即チ社員、衆庶ニ対シテ其義務ヲ尽スニ於テハ君主ノ一肢ノ如ク、君主ニ対シテ其義務ヲ尽スニ於テハ国家ノ一肢ノ如シ。之レヲ要スルニ社員ハ自己ト誓約スルニ過ザルノミ。但シ民法ニ於テ謂フ所ノ、一人ノ自己ト為シタル誓約ハ之レヲ遵守セザルコトヲ得ベシトノ道理ヲ引ヒテ、茲ニ之レヲ論スルコト勿レ。如何トナレハ、一人ノ其自己ト誓約スルコトト己レ全体ノ一肢ニシテ其全体ト誓約スルコトトハ、甚タ相違スル所アレハナリ。
[81] 井田進也·松永昌三「解説」『中江兆民全集』第1巻、295頁。
[82] 原田潜『民約論覆義』第一編「第七章 君主」40頁。日译原文如下(狭间断句):抑々民約トハ、民法ニ所謂ル自己ト自己トニ為シタル契約ハ、之ヲ循守スルモ循守セサルモ亦タ自己ノ意ニ一任スルモノナレハ、法律ノ之ヲ責ムヘキナシト云ヘル原則ニ大差異アリ。即チ前ニ述ヘタル如ク、民約ハ社会ト人民即チ社員トノ間ノ契約ニシテ、社会ヲ全体ト見做セバ社員ハ其一肢ニシテ、相ヒ分離スルヘカラサルモノナレハ、其契約モ自己ト自己ト為スニ異ナラス。故ニ社員カ各々其義務ヲ尽クスニ二種アリ。社員一同ニ向ツテハ君主ノ一肢ノ如クニ其義務ヲ行ヒ、君主ニ対シテハ社会ノ一肢ノ如クニ其義務ヲ尽ス□ナリ。
[83] 原田潜『民約論覆義』第二編第四章「君主ノ権限」75~76頁。日译原文如下(狭间断句):国ハ衆人ノ合同一致ナリ、国家ハ一会社ナリ、人民ハ社員ナリ、社員ノ中一人ノ公同共有ノ権力ヲ維持スルモノヲ君主ト云フ。另,与原田译正文对应的服部译见第2~12页,兆民日译见全集第1卷第8页,汉译见第113页。
[84] 加籐周一·丸山真男編『翻訳の思想』日本近代思想体系15、岩波書店、1991年、351頁。
[85] 飛鳥井雅道『中江兆民』256頁。『太陽』増刊「明治名著集」第13巻第7号、1907年6月。该增刊收入26篇文章,以汉文撰写的还有鸟尾得庵(小弥太)的「王法論」,但笔者寡闻,不知后世评价如何。
[86] 安永寿延「“契約”と“約”、およびpacte とcontract」『中江兆民全集』月報3(第4巻)、1984年。
[87] 山田博雄『中江兆民 翻訳の思想』3頁。另外,岛田虔次曾就兆民汉文指出,较之叙述自己见解的文章,其翻译文章表达能力略差。对此,山田说,岛田的看法“若针对内容则更准确”(同书第14页)。岛田的看法见有关《民约译解》“训读文”的「凡例」(桑原武夫編『中江兆民の研究』岩波書店、1966年、178頁)。
[88] 岛田虔次解《民约译解》卷一的训读文此前曾发表在桑原武夫编『中江兆民の研究』。另,收入全集的其他汉文也附有沟口雄三的训读文。
[89] 柳父章「兆民はなぜ『民約訳解』を漢文で訳したか」『国文学─解釈と教材の研究』第49巻第10号、2004年。
[90] 「雑纂」『中江兆民全集』第17巻。不过,幸德秋水说,兆民曾作汉诗数百首(同书,第463页)。另,当时,序文一般用汉文(且是不标句读的“白文”)撰写。
[91] 『中江兆民全集』第11巻。兆民曾随冈松瓮谷汉译《常山纪事》,故所作汉文应属不少。
[92] 『中江兆民全集』第14巻、78~82頁(训读文83~89頁)。该文无署名,据认为是兆民翻译。
[93] 桑原武夫「人間兆民」『中江兆民の研究』30頁。
[94] 井田進也·松永昌三「解題」『中江兆民全集』第1巻、289~296頁。
[95] 陸羯南『近時政論考』(『明治文化全集』第3巻、政治論、日本評論社、1956年、473頁)。
[96] 三浦国雄「翻訳語と中国思想─『哲学字彙』を読む」『人文研究(大坂市立大学文学部紀要)』第47巻第3分冊、1995年、34頁。所谓“解读”(「解読」),大概也含有“确定标准”之意。
[97] 本郷生「外国ノ地名ヲ書クニ漢字ヲ用フルノ不便ヲ再ビ言フ」『東洋学芸雑誌』第73号、明治20(1887)年10月。
[98] 杉原丈夫「明治初年以前における西洋哲学用語の形成」岡山大学法文学部『学術紀要』第40号(哲学篇)、1979年。
[99] 木下彪『明治詩話』文中堂、1943年、19頁。
[100] 石井研堂『明治事物起原』第一巻、ちくま学芸文庫、1997年、82頁。
[101] ヘボン『和英語林集成』三版、講談社、1980年、松村明「解説」968,973頁。
[102] 手島邦夫「西周の新造語について」『国語学研究』第41号、2002年。
[103] 词条数引自飛田良文「『哲学字彙』の成立と改訂について」(1980年刊復刻影印本三版)。
[104] 三浦国雄「翻訳語と中国思想─『哲学字彙』を読む」41頁。
[105] 船山信一『明治哲学史研究』ミネルヴァ書房、1965年、18頁。
[106] 飛田良文編『哲学字彙 訳語総索引』笠間書院、1979年。
[107] 「理学鉤玄」『中江兆民全集』第7巻、19,3頁。
[108] 陳力衛『和製漢語の形成とその展開』汲古書院、2001年、第三章。
[109] 「明治二十九年の俳句界」(三浦叶『明治漢文学史』283頁所引)。
[110] 穂積陳重『法窓夜話』岩波文庫、1980年、172頁。
[111] 『東京大学第二年報』起明治十四年九月止同十五年十二月、7~8頁。
[112] 狹間直樹「番組小学校の創設と『万国公法』」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第12/13号、2008年、575頁。
[113] 総務庁統計局監修『国勢調査集大成 人口統計総覧』東洋経済新報社編刊、1985年、442頁。
[114] 揖斐高「江戸の漢詩人」諏訪春雄·日野龍夫編『江戸文学と中国』毎日新聞社、1977年、79頁。
[115] 三浦叶「明治年間における漢詩文集年表」『明治漢文学史』汲古書院、1998年、付録。
[116] 大町桂月「明治文壇の奇現象」木下彪『明治詩話』356頁所引。
[117] 正岡子規「文界八あたり 和歌」三浦叶『明治漢文学史』294頁所引。
[118] 正岡子規「十たび歌よみに与ふる書」三浦叶『明治の漢学』27頁所引。
[119] 瀬古確『近代日本文章史』目黒書店、1940年、3頁。
[120] 木坂基『近代文章成立の諸相』和泉書院、1988年(柳父章等編『日本の翻訳論─アンソロジーと解題』法政大学出版局、2010年所収、77頁)。初期出现的文体称“周密文体”「周密文体」。
[121] 「一年有半」『中江兆民全集』第10巻、168頁。
[122] 伊藤整『日本文壇史1 開化期の人々』講談社、1994年、212頁。
[123] 松永昌三『中江兆民評伝』102,107頁。
[124] 伊藤整『日本文壇史1 開化期の人々』217頁。
[125] 「祝詞」『中江兆民全集』第11巻、28頁[『東洋自由新聞』明治14(1881)年3月18日]。
[126] 幸徳秋水「兆民先生」『中江兆民全集』別巻、466頁。
[127] 半山生「兆民先生を訪ふ」『中江兆民全集』別巻、275頁[『毎日新聞』明治34(1901)年9月13日]。
[128] 幸徳秋水「兆民先生」『中江兆民全集』別巻、421頁。
[129] 狹間直樹「初期アジア主義についての史的考察」(3)『東亜』第411号、2001年。
[130] 狹間直樹「初期アジア主義についての史的考察」(5)『東亜』第413号、2001年。
[131] 「草稿(『北門新報』)」『中江兆民全集』第13巻、420頁。
[132] 『中江兆民全集』第1巻、94頁。『民約通義』15葉表。
[133] 「大同訳書局新出各書広告」『申報』光緒二十四(1898)三月三十日(王宝平「康有為『日本書目志』出典考」『汲古』第57号、2010年6月、注4)。大同译书局成立于光绪二十三(1897)年九、十月间,经理广康仁(汤志钧:《戊戌变法史》,人民出版社,1984,第213页)。
[134] 熊月之认为,载有咽血咙子序文的(法)卢梭著、中江兆民译《民约通义》,由上海同文译书局于1898年刊行(《中国近代民主思想史》,上海人民出版社,1986,第312页)。未见,仅记作参考。
[135] 《警钟日报》1904年11月19~24日。
[136] 《卢梭学案JEAN JAPUES ROUSSEAN》,《清议报》第98~100号,1901年11~12月。
[137] 中国之新民:《民约论钜子卢梭之学说》,《新民丛报》第11、12号,1902年7月。从思想史角度看,有些用词变化值得关注,如“财利”改作“生计学”(第11号,第25页),“施法”改作“行法(行政)”(第12号,第11页)等,但内容基本未变。
[138] 《饮冰室合集》文集之六。“财利”见第103页,“施法”见第109页。
[139] Marianne Bastid,“The influence of Jean-Jacques Rousseau on Chinese political thought before the 1911 revolution,” Zhang Zhilian ed.,China and the French Revolution(Oxford:Pergamon Press,1990). 该文为1989年法国革命200周年纪念会上的报告。
[140] 宮村治雄「梁啓超の西洋思想家論─その東学との関連において」『中国─社会と文化』第5号、1990年6月。后收入『開国経験の思想史─兆民と時代精神』(東京大学出版会、1996年)。有关卢梭处参照『中江兆民全集』第6卷第121~144页。
[141] 宫村论文指出,这几篇“学案”也依据中江笃介译。
[142] 『中江兆民全集』第6巻、121~144頁。
[143] 其间,1899年12月19日至1901年5月29日,梁启超基本不在日本——除1900年8月在日本三周外。关于梁的日语能力,此处无暇深入,但从据认为出自梁启超之手的《和文汉读法》内容看,显然不足以胜任高质量翻译。
[144] 巴斯蒂:《中国近代国家观念溯源》,《近代史研究》第100期,1997年。《国家论》载于《清议报》,第11~31号,未完。
[145] 吕顺长:《〈佳人奇遇〉并非梁启超所译》,《东亚学研究》创刊号(浙江工商大学东亚研究院,近期出版;2012年3月18日中国现代史研究会年会口头发表)。《佳人奇遇》连载于《清议报》第1~35号,未完。
[146] 《新民丛报》第12号,第7页(下文与《清议报》同者,标注《新民丛报》页码)。兆民原译为:国民ノ主権ト政府ノ権トヲ混淆シテ分別スル所無カリキ(『中江兆民全集』第6巻、139頁)。
[147] 『中江兆民全集』第6巻、138頁。《新民丛报》第12号,第6页。
[148] 《新民丛报》,第12号,第7页。兆民の原文:「政府トハ何ゾヤ、曰ク、是レ主権ヲ把持スル者即チ国民ト主権ニ従フ者即チ各人トノ中間ニ居テ之ガ交際ヲ賛助シ、並ニ法律ヲ施行シテ以テ公衆ノ自由権ヲ防護スルノ任ヲ負フ者ナリ、更ニ之ヲ言ヘバ、国民ハ傭主ニシテ官吏ハ之レガ役ニ任ズル者ナリ」(『中江兆民全集』第6巻、139~140頁)。
[149] 有关康德,载《新民丛报》,第25~26、28号,第46、47、48合刊号。第3号载“达尔文”,宫村亦作所据不详。
[150] 《新民丛报》,第11号,第9页。
[151] 《新民丛报》,第12号,第4页。
[152] 《新民丛报》,第12号,第10页。
[153] 宮村治雄『開国経験の思想史』240頁。
[154] 《上海广智书局已译书目》,《新民丛报》第19号,1902年10月。值得注目的是,此时书目中已见麦孟华《孟德斯鸠万法精理》、罗普《斯宾塞社会平权论》和韩文举《边沁利学正宗》。这些译本均所未见,但据推测,《孟德斯鸠万法精理》应为何礼之译《万法精理》之重译,《斯宾塞社会平权论》应为松岛刚译『社会平権論』之重译,《边沁利学正宗》应为陆奥宗光译『利学正宗』之重译。但因未见译本,无法做进一步判断。
[155] 李国俊编《梁启超著述系年》,复旦大学出版社,1986,第264页。
[156] 島田虔次『中国革命の先駆者たち』127~128頁。
[157] 马叙伦:《中国民族主义发明家黄梨洲先生传》,《政艺通报》癸卯第20号,1903年11月。
[158] 星台(陈天华):《狮子吼》,《民报》第7号,1906年,第90页。
[159] 《新民丛报》第18号,1902年10月。
[160] 《江苏》第4期,1904年7月,广告。
[161] 梁启超:《政治学大家伯伦知理之学说》,《新民丛报》第38/39合刊号,1903年10月,第89页。
[162] 留学生人数,请参照:小島淑男『留日学生の辛亥革命』青木書店、1989年、13頁。
[163] 《法国 卢骚著 民约论》,《译书汇编》,第1期(1900年12月)、第2期(1901年1月)、第4期(1901年5月)、第9期(1901年9月)。
[164] 原田潜訳『民約論覆義』37~38頁。日译原文如下(狭间断句):且一国ハ即チ会社ナリ。国人ハ悉ク社員ナリ。社員ハ自己ノ財産ヲ挙ケテ会社ニ投与スルトキハ、会社ハ其資力ニ乏シキコトナク、之カ為メ社員中、亦敢テ会社ノ貧窮ヲ怒ルモノナカル可シ。之ニ反シテ自己ノ一二ノ権利ヲ自己ニ私有スルトキハ、資力甚タ乏シクシテ諸多ノ事業ヲ為スニ堪ヘサルニ至ルヘシ。亦会社ニ入リテ其結合セル権利ヲ一己人ノ私有ニ属セント欲スル時ハ、社中紛紜ヲ生シ争端ヲ開クニ至ルヘシ。此場合ニ於テハ、豫シメ約シテ長ナルモノヲ置キ、理非曲直ヲ審理シ、非ト曲トハ之ヲ遠サケ、理ト直トハ之ヲ賞セサルヘカラス。然ラサレハ理非ヲ自カラ審理シテ、各々自カラ他人ノ事ヲ合セテ判定セントスルニ至ルヘシ。是レ蒙昧無智ノ世、強力者脆弱者ヲ無道ニ使役スルノ流ニ陥ヰリ、会社ノ名アリテ会社ノ実ナキニ至ルヘシ。
[165] 《译书汇编》第1期,第9页a。下线为狭间所加。
[166] 法国路索著、吴县杨廷栋译《路索民约论》,作新社、开明书店,光绪二十八年十一月(1902年12月)。
[167] 杨廷栋译《路索民约论》,《初刻民约论记》页1。
[168] 酙癸:《新名词释义》,《浙江潮》,第2期,1903年3月。《浙江潮》由孙翼中、蒋智由、许寿裳等编辑,鲁迅也曾撰文。
[169] 如第二章开头。
[170] 《译书汇编》,第2期,第20~21页。下线为狭间所加。
[171] 杨廷栋译《路索民约论》,页10。下线为狭间所加。
[172] 刘师培:《中国民约精义》,序,甲辰四月下浣(1904年5月)识,收于《刘申叔先生遗书》第1册,京华书局,1970,第676页。
[173] 星台(陈天华):《狮子吼》,《民报》第7号,1906年,第88~89页。
[174] 张继:《回忆录》,中央改造委员会党史史料编纂委员会编《张溥泉先生全集》(正编),中央文物供应社,1951。
[175] 君武(马君武):《帝民说》,《民报》第2号,1906年,第25页。马曾从法语全译卢梭民约论,名《足本 卢骚民约论》,中华书局,1918年。参照:小野和子「京都大学最初の中国人留学生─「女性の権利」の訳者馬君武」京都橘女子大学女性歴史文化研究所編『京都の女性史』思文閣出版、2002年。
[176] 自由(冯自由):《录中国日报民生主义与中国政治改革之前途》,《民报》第4号,1906,第110页。
[177] 饮冰(梁启超):《答某报第四号对于新民丛报之辩驳》,《新民丛报》第79期,1906年4月,收于《饮冰室合集》文集十八,第78页。
[178] 精卫(汪兆铭):《再驳〈新民丛报〉之政治革命论》,《民报》第7期,1906年9月,第58页。相信自己在论战中占优势的汪兆铭,对梁文引用较详。
[179] 法兰西戎雅屈卢骚著、日本中江笃介译并解《民约论译解》,《民报》第26号,1910年2月1日。仅录正文。刊行年月存在问题,暂不深入。
[180] 『兆民文集』日高有倫堂、1909年10月(基于宗高書房1965年刊復刻本)。
[181] 其间经过,请参照:狹間直樹「中国人による『民約訳解』の重刊をめぐって─中国での兆民受容·続」『中江兆民全集』月報18(別巻)1986年 [贺跃夫译《中国人重刊〈民约译解〉——再论中江兆民思想在中国的传播》,《中山大学学报论丛》哲学社会科学25(孙中山研究8),1991年]。
[182] 法国盧梭先生原著/日本中江篤助先生漢訳/後学田桐校字『共和原理 民約論』東京 民国社、1914年7月10日。
[183] 田桐「重刊中江先生漢訳民約論敍」『共和原理 民約論』。
[184] 翻译、解读该诗,曾得蔡毅、三浦国雄二教授示教,特此致谢。
[185] 原著者法国卢梭、汉译者日本中江笃介《民约论》,上海泰东图书局,1914年7月5日初版,1915年7月15日再版(订正刊行年)。正文与田桐校字版同,但卷首无田桐古诗及重刊叙,而代之以谷钟秀题“乙卯仲夏 共和之神”。
[186] 「民約訳解」巻之二第六章の第三〔解〕『中江兆民全集』第1巻197頁(训读文)。兆民不赞成“共和”这一译词,此处不作为问题。因为,对革命派而言,民权、共和、革命是三位一体的关系。
[187] 村田雄二郎「理と力─李大釗の「平民主義」」『思想』1988年3月。
[188] 宮村治雄「「東洋のルソー」索隠─兆民そしてトルコ·朝鮮·中国」『思想』2001年12月。从引用页判断,李大钊所用的应是泰东图书局本。此外,宫村该文注释30批判道,邹容《革命军》只要将卢梭作“恢复天赋权利”之理论根据来引用(狹間「ルソーと中国」『思想』1978年7月),就是没有看到兆民《民约译解》之“宗旨”在于“抛弃所谓自由权之正道”。邹容的确未理解创制“社会契约”的理论路向,但其呼吁从强使人处于奴隶状态的满洲王朝那里“恢复”“天赋权利”的《革命军》作为中国革命的理论之一发挥了巨大作用,则是历史事实。
[189] 松尾尊兊「明治末年のルソー」『大正デモクラシーの研究』青木書店、1978年、275~285頁。